歴史ミステリー

16. 光秀は論理的ではない。

■光秀は論理的ではない。


 

それにしても光秀は文書能力も表現力、説得力にも欠けている。
この程度では他の武将や自分の部下への説得力やリーダー・シップも発揮できない。
信長は行き過ぎの感じはあるものの、それくらい極端にやらないと多くの部下や
他の武将にもわかりやすく示すことができないからである。
ただし少々悪趣味なところが感じられるが楽市楽座程度で信長が合理的だと判断するのは
早計である。

最初の光秀の失敗は使者の口上を信じたことであるが、これについては後に説明する。

  さらに光秀の失敗として

   

●先に先兵を送って様子を確認する悪い癖が失敗を招いている。

    

1.本能寺へ向かう前に洛中の門を先に確認させるよう手下を送った。
… これは問題にならなかったから良かったものの下手すると
         信長が気づいて逃げてしまうことに成りかねなかった。
確認しなければならなかったのは直前になってから
謀反を決心したからであってそれでも使いの者を
送ったのではバレては失敗する可能性が高かった。

2.警戒厳重な備中松本城に手紙を持たせた使者を送った。
…おかげで秀吉に謀反を知らせることになってしまい
中国大返しを与えてしまった。毛利が味方になる可能性より
警備厳重な秀吉にバレてしまうとはなぜ想像できなかったのか?
リスク・ヘッジが考えられていない。
犯してはならない光秀最大のミスである。

3.瀬田の唐橋にも使者を送ったために信長の部下に唐橋を壊させることになり
貴重な時間の足止めを食った。
まさしく唐橋を制する者は天下を制する、とはよく言ったもので
天下を収める要所であった。
信長が安土や長浜に秀吉、坂本に光秀を配したのは東西の要所と
見ていたのだろう。

●信頼できる相談のできる部下がいない。

1.出陣の前に信頼できる部下に何も相談していない。

事前に胸の内を相談できる優秀な部下が数名いれば謀反を思いとどまらせることが
できたはずだ。
後に説明するが光秀が謀反に踏み切ったきっかけは冷静に複数の人間が
考えれば軽々に行動すべきではないことがわかるはずである。
このとき光秀は間違いなく理性を欠いていた。
論理的に理性を持って考えればおかしなことに気づくはずである。

2.部下から誓約状と人質を取っている。

これは部下を信頼していない確たる証拠であり家族を人質に取られた部下が
意気に感じて仕事に望むだろうか?
否である。光秀は部下の誰をも信頼していなかったのである。

3.安土城の金銀財宝を部下ではなく朝廷の公家に献上するという愚行

秀吉と比べてみて欲しい。秀吉は姫路城に帰るや否や自分の全財産
足軽に至るまでの全員に分け与えている。
戦いに負ければ戻ることはないから、もあるが
足軽たちは次の戦いに勝てばさらなる恩賞に預かるものと
戦意は大いに向上したのである。
これに対して光秀の部下たちは謀反というリスクに加わったのに
何の恩恵にも与っていない。
それどころか見つけた信長の財産公家に渡してしまったのだ。
一体、我々の主君は何を考えているのだ?! と思ったにちがいない。
ここでも光秀は人心を読めていない。
謀反の名分が欲しいことにしか頭が働いておらずとても理知的に
考えているとは思えない。
自分を評価してくれる上の存在ばかりが気になって仕方がないのだ。
これは上司の目ばかりを気にしている典型的な中間管理職の発想である。

4.頭脳部が光秀だけという寂しさ

司令塔というか戦略を立てているのが光秀だけである。
光秀はまだ部下を信用していないかまたは光秀と部下の差が
大きすぎたのかも知れない。
そのため何でも光秀一人で考えねばならなかった。
あの部下の言うことなど聞かなかった信長でさえも
秀吉など意見を具申する部下を何人か持っていたが
光秀にはそれがなかった。

 

●部下の掌握が下手

「これより殿は天下様になられる!」と部下を鼓舞した光秀の重臣達のほうが
まだ光秀よりマシ。
安土城で取得した信長の金銀財宝なんか自分のものじゃないんだから
謀反人となっても自分についてきてくれた部下に全部分け与えれば
良かった。
それを朝廷の公家なんかに献上してどうなる?
まだ事態は沈静化していないのだから名誉や称号を求めても仕方ないはずなのだが。
山崎の合戦では光秀の兵は疲れて気落ちしていたに相違ない。
あっという間に山崎での勝敗がついた原因は光秀はわからなかったであろう。
自分の評価ばかりを気にしているからそうなったのだが
自分の部下ばかりを気にしていても失敗する。
中間管理職は難しい。
光秀は小心者である。リーダーになるべき人物ではなかった。

●文書能力、表現力や説得力が下手

関が原の合戦のときの大谷吉継を思い出して欲しい。
人徳に優れなかった石田光成に代わってあれだけの西側の兵を手紙によって集めたのだ。
光秀の書いた書状はあなたの代わりに戦ったのでわしは隠居するつもりだとか
凡そ謀反人らしからぬ弱気な言葉を並べて説得力はない。
いきいきと人をリードする言葉がないと人はなびかないのだ。
いくら親戚筋だからという理由だけでは戦国武将は動かない。
これも事前の策がなく相談できる身近な部下もいなかったことを如実に表している。
「織田の使者が来たら丁重に扱うこと」というお触書を出したからといって
光秀が論理的であるとは評価できる理由はどこにもない。
   筆者は光秀が嫌いなわけではなくむしろ信長のような中小企業のワガママな
   オヤジをやっつけてくれた光秀には好感は持っている。
しかし仕事として見たときに不足が多いと感じている。

 

●最大のミスは山崎の合戦

さらに最大の判断ミスであったのは山崎まで秀吉軍を迎え打って京都を出たことである。
わざわざ山崎まで秀吉軍を迎えに行く必要は全くなかった。
光秀はこうまでも何度もよくミスを重ねるものだと驚いてしまう。
都に留まって御所を背後にしておけば秀吉は攻めるに攻められない。
天皇こそ最大の人質になっていたはずであるからだ。
秀吉への連絡も遅れていてしばらくの時間を稼いでいれば御所に留まる光秀は
誰からも攻められず光秀の天下は既成事実化していた可能性が高い。
わざわざ山崎まで秀吉を迎えに行ったのは最大の失策であろう。
ジッと都に留まっているだけでよかったのだ。
おまけに先に山崎に着いておきながら合戦の定石である高台を押さえるというとも
しなかった。みすみす天王山を秀吉に開けておいて自分は小高い古墳の上に
陣取っただけである。
   このときも部下には相談しなかったのだろうか?
天皇の傍にいればどれほど有利にことが運ぶかわからなかった。
後の蛤御門の変での薩摩の有利さを見てもわかるように
天皇に矛先を向ければ賊軍になってしまうのである。
公家に金だけ渡して名誉をもらっても戦国の世では役には立たないことくらいは
わからなかったのだろうか?
部下も含めて意見を聞くべきであった。
    光秀は何か行動を起こす前に何も考えていなかった。
光秀の行動をいつもむ見ていると失敗した場合は?とか仮定のことを
考えていないように見える。
「何かをする」というだけでその行動の危やうさや失敗したときの
   起こることをまるで想定していないようにしか見えない。
それまでは信長の言うとおりに動いているときは良かったのだが
自分の判断で動くとなるとまるでダメで12日間しか持たなかった器の人間である。
もうこれは仕方のない器量であった。

■ 敵は本能寺ではない

敵は本能寺にあり」とは言わなかったとの評論もあるが
この言葉は歴史の節目として印象たらしめる言葉である。
当時はラウド・スピーカーはなかったので光秀が言っても
部下には伝わらなかったとか笑ってしまうような無粋な評論をする人がいる。
それでは武田信玄も上杉謙信も戦場では下を向いて押し黙っていたのですか? と
言いたい。身近な部下に檄を飛ばすことは常識であり家臣達はそれを聞いて
士気を高めて命をかけて戦っていたのだ。
命のやり取りをするからには自分の行動が正しいものと檄を飛ばしてくれる
主君がいればこそ死地に突っ込んで行けるのである。

敵は本能寺にあり」とは光秀の最大の見せ場であり史実の流れに
影響するものではない。
歌舞伎役者の見栄みたいものとして、いちいちこだわったりするのは
空気の流れを読まない無粋というものである。
これが事実だとすると「光秀、良く言った!」と褒めてやればよいのだ。
私は光秀を嫌いではない。むしろ好きである。
あの中小企業のおやじのようなワガママな信長を叩き潰してくれたのは
痛快でもある。
最近の物理学では歴史にもいろんな流れがあるかも知れないとの説があるが
もしそうであれば信長が暗殺されたこの現代でよかったと思う。
信長がそのまま天下を取っていたならどのような時代になったかと
思ってしまう。
ちなみに秀吉は大坂城の築城に始まって朝鮮出兵に至るまでみな信長の
アイデア・ストーリーをそのまま実行したに過ぎない。
秀吉も忠実な部下ではあったけれども独創的な手腕を発揮するタイプでは
なかった。
   やはり信長と秀吉とでは血筋そのものが違う。
秀吉では天下を支えることはできず家康に戻るのは自然な流れであろう。

   さて問題なのは「今日から上様は天下人になられる。草履取りに至るまで
勇み喜ぶがいい。高下の処遇は手柄によって決めよう
」と光秀の幹部は
部下を大いに鼓舞したのであるが後に安土城で信長の金銀財宝をゲットしてからも
公家朝廷には銀を差し出したり妙心寺では「光秀の湯殿」と呼ばれる風呂の
多大な建築費を寄贈しているがついぞ部下に恩賞を振舞ったという話は
聞いたことがない。
光秀の家臣達は決して好きで謀反に加担したわけではないのも多いはずである。
失敗すれば自分も末代まで謀反人として責められるからである。
家臣達はさぞやガッカリしたことであろう。
本能寺の変に成功した後でも光秀は部下の労をねぎらうばかりか
信長の遺骸が見つからないことに心労したり公家や親類縁者の評価ばかり
気にしている典型的な中間管理職であった。
   藪の中からの百姓などの落ち武者狩りに竹槍で突かれてあえない最期を
遂げたということになっているが味方の部下に殺されたとしても
おかしくはなかったであろう。

考えてみて欲しい。このとき光秀はこれまで10年くらいは前線に出ておらず
部下も10年は実践より離れている。
それで久しぶりに善戦したはずなの部下は何の恩賞にも預かれないのである。
裏切り者の汚名を着てさえも恩賞もなしでは誰が次に頑張ろうと思うのか?
光秀はそんな゜こともわからなかった。

一方の秀吉軍は絶えず前線で戦っておりしかも姫路で思わぬ臨時ボーナス
もらって、主君の敵討ちとの大儀名分もあって士気は高まる一方である。
   これだけもらったのだから次に頑張ればもっともらえると思うのは
人間の道理でありわが主君(=秀吉)は気前のよい付いていきたい主であると
思うのは当然のことである。

これは戦う前から勝敗はついているし光秀軍は戦うというより逃げ出したような
感じさえする。

●秀吉は機をみて敏である。

秀吉は本能寺の変を知るや否や誠に好機ととらえて素早く行動を起こしている。
これは現代風に言うと「鼻が利く」ことになる。
柴田勝家や他の武将は事の現実感覚に乏しかったのだろう。
秀吉が素早く「中国大返し」と動いたのはこんなオイシイ話
他の武将に横取りされたくなかったからである。
ただ主人を亡くして狼狽しているだけなら素早く動けず泣いているばかりであったろうが
秀吉は違った。
秀吉なれば北陸遠征の途中であっても「大返し」をやってのけだだろう。
上様はご無事である」という手紙を諸将に配布したのも秀吉ならである。
あの恐ろしい信長がまだ生きていると知ったなら光秀に味方する者はほとんどいなくなる。
事実、小兵侍にまで協力を断られている。
しかし時間が立てばやはり信長は亡くなっていることがバレるのであるが
光秀が時間を惜しんでわざわざ山崎まで出てきてくれたので
   真実がバレる間もなく光秀を討ち果たすことができたのだ。
このスピード感が備わっていた秀吉の勝ちである。
秀吉の優れた嗅覚とスピード感を持ち出さなくても光秀は
   あまりにもミスが多すぎる。
秀吉以外を相手にしても光秀は30回対戦しても30回とも負けただろう。

歴史家は中国大返しをどのようにやったのかと物理的なことばかりに
言及するがこのスピード感と精神力を見ないで何を見るのかと思う。
秀吉は柴田勝家らの武将に勝つために急ぎ戻ったのであって
天下争奪戦がこのときに始まったのである。
鼻が利いた秀吉と他の武将との差である。