歴史ミステリー

15. 家康は無実だ

家康が本能寺の変の要因として関わりがあるのではないかと
疑われるのは次の点にある。

  

(1)家康暗殺説

信長が家康を本能寺に招いて光秀に暗殺させようとしたとの説である。
信長は家康の三河の所領が欲しくて暗殺を計画したがそれに気づいた
家康が光秀と組んで信長を襲わせたというものである。
光秀の足軽の日記にも「敵は誰なのかわからなかった」とか
「敵は家康様であると思っていた」との記録が残っているが
これは雑兵の日記であって指揮系統の下っ端である。

しかし

・家康を暗殺するだけなら光秀の1万3千もの大軍は必要ない。
信長の手下の数名で十分である。

・家康は信長との同盟を破ったことは生涯一度もなかった。
そのような信頼できる同盟軍を信長自身が殺したのでは
後々までも卑怯のそしりを免れない。
失うものはあまりにも多すぎる。

・家康は本能寺の変で自分の身も危ないと思うと
「ここで切腹する!!」と泣きわめいて身の回りの家臣たちを
 困らせている。謀反の計画に家康が加担したとは思えない。

・光秀と家康が組んでいたなら「神君伊賀超え」など必要なかった。
家康も逃げ回る必要など、なかった。

(2)家康が光秀を評価

家康は後年、光秀こそ家臣の誉れである、と光秀を高く評価していた。
これは光秀の信長への献身ぶりをそばで眺めていたからであろうが
家康は慎重な性格であり豊臣政権になってからも豊臣秀頼の時代でも
急に豊臣を滅ぼそうとしていたわけではなく家康は豊臣が滅びて
わずか1年後に亡くなっている。
家康がわが天下と安堵したのは家康の生涯のうちでわずか最後の一年だけであった。
これほど慎重に待ち続ける性格の家康がバクチ的な策略に手を染めるような
ことは決してしないし、する必要もない。