歴史ミステリー

11. 邪馬台国はここににあった !!

邪馬台国論争は新井白石だけでなく尽きるところを知らない。

誰もが納得できる説が九州説にも機内説にもあるからだ。
ただ前のヒントに示したように

・九州説を唱える学者は九州ばかりを調べている。

・畿内説を唱える学者もまた畿内ばかりを調べている。

そしてそれぞれに有力な証拠や発掘があるからである。
は北九州で豊富に見つかっている。
当時は鉄の精製は軍需機密であり最高のシークレットで
あったに違いない。
それが北九州だけに豊富に見つかっているのだ。
一方、銅鏡百枚金印を卑弥呼に送ったと記録されているのだから
銅鏡が大量に見つかったのはというのは出雲地方である。

邪馬台国論争がこれほど厳しくなるのは邪馬台国が大和朝廷
推移したと歴史家の多くが認めているからである。
つまり日本の礎になったのはやはり邪馬台国であることは
間違いなさそうなのである。

それでは邪馬台国論争に決着をつける説をいよいよ紹介しよう。
これほど納得できる説は他にはない。

これは意外と日本ではなく中国の学者による提唱である。
これは日本国外だからこそ発想されたものである。
実は邪馬台国論争は中国や台湾でも多く研究されていて
魏志倭人伝も中国語なのでよく研究されている。
台湾の有名な学者は九州説を主張している。

ところで中国に陳長崎(ちん・ちょうき)という学者がいるが
東遷説を唱えている。
東遷説というのは都が九州から畿内へ移動したとする説である。
というのは中国でも孔子がいた魯の国の首都は曲阜(きょくふ)という
地名であるが山東省にあるがこれは河南省から移動したものである。
都の場所が変わると地名も移動するというのは古代の中国では
よくあったことらしい。

日本の場合でも

 

 北九州 畿内
住吉神社 住吉神社
笠置山 笠置山
田原 田原
三輪 三輪
朝倉 朝倉

と同じ地名がしかもほぼ同じ位置関係で存在している。
畿内の三輪はあの素麺で有名な三輪であり
三輪の神社も調べてみると奈良県桜井市にあるのは
三輪明神 大神神社であり九州でも三輪山に同じ名前で
三輪明神 大神神社というのが存在していた。

どうだろうか?
邪馬台国が九州から畿内へ移動したというのであれば
どちらも邪馬台国である痕跡が残っていてもおかしくはない。
日本の学者の論争はどちらかが邪馬台国であるに
ちがいないという前提で話を進めていたのだが
中国の学者は都の移動と同時に地名も移動することが
中国ではごく普通に行われていたので邪馬台国の移動を
考えたにちがいない。

逆に福岡・博多地区には呉服町とか小倉、八幡、八坂神社
など京都に共通する地名が多い。
これは京都から太宰府菅原道真が左遷されたときに
つけられた地名のように思える。
千葉県の勝浦も和歌山県の勝浦に移動したと言われている。

それは別としてもこれらの同じ地名がしかも
同じ位置関係で残っているのは決定的であると
見える。
卑弥呼の墓・箸墓古墳が奈良にあるのもこれで納得できる。
今では福岡田川市の大山古墳は卑弥呼の妹の墓と
言われていることも史実として納得できる。
鉄の発掘や鏡の発掘などの時代の流れもすべて
説明することができる。
私達は両方ともが邪馬台国であったという発想は
どこにもなかったのである。
そう考えると道理でどちらも正しいという証拠が
たくさん残っているわけである。

歴史ミステリーの解明は新たな視点から考えてみる
必要がある。