歴史ミステリー

10. 邪馬台国はどこにあった?

歴史の中でも古代ミステリーとして論議が
尽きることがないのがこの議題である。

邪馬台国は果たしてどこにあったのか?

主に対比して論議されるのが九州説機内説である。
邪馬台国論争は古代より続いており江戸時代にも
新井白石が九州説を主張している。

簡単に言えば魏志倭人伝の記述にあるような
建物群がそっくりそのままのようにあるのが
九州説。特に佐賀の吉野ヶ里遺跡である。
ここは遺跡の規模といいこの時代では
邪馬台国がここにあったとしか思えない遺跡が
残っている。

私も吉野ヶ里遺跡は訪ねたことがあるが
確かによく整備されていて魏志倭人伝の記述そのものに
正確であるように思える。
(想像だと思うが)卑弥呼の住居モデルもあって
中に入ると小さな土の上にワラを敷き詰めただけの
ベッドのようなものがあった。
邪馬台国のトップである女王でもこんな粗末な寝床とは
驚いた記憶がある。

一方、畿内説では奈良県桜井市の纒向遺跡(まきむくいせき)でも
大規模な宮殿の跡が発見され何より大量のが発掘されている。
これは卑弥呼が魏の王から受取った大量の鏡ではないかと
言われている。
また纒向遺跡からは土器が北陸、九州、東海など全国から様々な土器が発掘されており
当時、これだけの種類の土器が同じ場所から出るのは交流の中心であった
邪馬台国しかなかったはずである。
桃の種も大量に見つかっており高貴な人々が暮らしていたことを
物語っている。

桜井市の人たちは邪馬台国は桜井にあったと信じて疑わないとの
ことであると桜井市の出身の人に聞いたことがある。

その他四国説もあるがこの九州説と畿内説のどちらも
納得できるような有力な裏づけとなるような
発見が続いている。

■魏志倭人伝の記述から

・南へ水行十日・陸行一月の方角と距離の記述
この記述ではフィリピンの海中になってしまうが中国では日本は朝鮮の南に位置し
中国の東に位置しているものと思われていて古代中国のいくつかの地図にも
日本は朝鮮半島の南に描かれている。

従って最初の記述を南→東へと解釈すると機内に相当する。
しかし水行十日および陸行一月ではなく水行十日または陸行一月と
解釈すると距離的には北九州になる。

・牛馬はいない
物資の運搬や移動の交通の手段となる牛馬がいないので
国の管理は広い規模の管理はできない。

・土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。
熊本や宮崎が想像される。

・卑彌呼について
倭国は乱れ、お互い攻めあったので女子を王に立てた、名を卑彌呼という。
卑彌呼と狗奴國の男王とは不仲で争っていた。

・邪馬台国の東の海を渡るとまた倭人が住んでいる国がある。
畿内の東には海がないが北九州の東には瀬戸内海がある。

■卑弥呼の墓

福岡県田川市赤村で発見された円墳は大山古墳と呼ばれ
女性用の装飾品が多数発見されたことから卑弥呼の墓ではないかと
騒がれた。

・しかし奈良県桜井市で発見された箸墓古墳(はしはかこふん)が
この時代の最大規模の大きさであることからこれが
卑弥呼の墓ではないかというのが現在の定説である。

— 東に海があるという魏志倭人伝の記述を読むと
北九州説が決定的に思えるが
この時代の最大規模の墳墓として箸墓古墳が
ほぼ卑弥呼の墓であろうと認められているのを
見ると畿内説と九州説のどちらも正しく思えてしまう。

普通、歴史ミステリーと言われるものは決定打に欠くものが
多いのだが邪馬台国の説にはどちらも決定づけるような
発見が続いているのは珍しいことである。
このどちらにも信憑性が高いことが余計に歴史家を
悩ませることになっている。

ここでヒントを与えるので読者諸氏も考えて欲しい。

■学者は二手に分かれていて九州説を唱える学者は九州ばかりを
調べて研究している。
一方、畿内説を唱える学者もまた畿内ばかりを専門に
調査しとて研究している。

 

このように分かれてしまうケースはよくあることなのだが
両方共にそれなりの遺跡が見つかっているので
それなりの信憑性があるので判定に困るのだ。

さあ、あなたならどのように判定しますか?
そしてその根拠は?