歴史ミステリー

7. 勝海舟も男だった

勝海舟は貧しい旗本の生まれで幼いときは貧乏に苦労したようであるが修行を重ね
ペリー来航で老中阿部正弘が町民に至るまで広く意見を求めたところ
勝海舟の海防意見書が認められて出世の糸口になった。

勝海舟と言えば昔は咸臨丸で太平洋を横断した冒険家のように思われていたが
そうではなく日米修好通称条約の批准(=確認)のためにれっきとした
 仕事として太平洋を渡って渡米したのである。

この咸臨丸には実は若き福沢諭吉も乗っていて船酔いに苦しむ勝海舟を見て
「だらしがない!!」と軽蔑したそうである。

さて勝海舟(勝隣太郎)であるが身長は156CMと小柄であるが当時としては普通。
残されている写真のようになかなかのイケメンである。
若い日の勝海舟は妻の民子さんに随分惚れてノロケていたようであるが
幕臣に取り立てられて出世していろいろなところに出かける日々が
多くなってくると事情も少し変わってくるようで。

あるとき勝は妻の民子さんを呼んで何人かの幼い子供たちを紹介した。
で、

「この子たちは皆、おれの子供たちだ。おまえが面倒みてやってくれ。」

と引き渡したという。
民子さんはビツクリ?!

実は子供たちは勝の家で働いているお手伝いさん達(複数)とのあいだにできた子供たちで
あるという。
勝海舟も手近なところで済ましたものだと思いきやお手伝いさんに手を出したのではなく
地方に出かけて妾となった女性を皆、連れて来てお手伝いにしたのだった。
何とも豪胆な男である。

徳川慶喜の駿河での面倒を見た後で勝海舟は元の氷川神社の裏に戻り

( 勝海舟の家は赤坂/六本木一丁目の氷川神社のかなり坂を下った下にあり
現在はショット・バーになっている)

晩年は西郷隆盛との江戸無血開城の面談に行く途中で立ち寄った大田区の
洗足池の景色が気に入ってここでご意見番として余生を送っている。


さて民子さんは子供たちを引き取って育てたのだが晩年、最期の間際には

「あの人と同じ墓に入るのだけは嫌!! 」

と言って勝海舟と同じ墓に入ることを強く拒んだという。
そこで民子さんはしばらくは勝海舟とは別のお墓に埋葬されたのだが
その後、大田区の勝海舟記念館の横でこのように
勝海舟と仲良く並んだお墓に移されている。

勝海舟の最期の言葉は

「ハイ、これでおしまい!!」

享年77才であった。

ユーモアに溢れて豪胆な人生劇場をやってのけた勝海舟は
私達に多くのものを残してくれた。
江戸が焼けずに今の東京の繁栄を見て勝は満足してくれるだろう。

西郷隆盛を誘って二人で愛宕神社に登り二人で江戸の町を眺めて

「この町が焼け野原になるのは忍びない」

と江戸総攻撃を
思いとどまらせた勝の良心に訴える力はスゴイと思うのは
私だけではないだろう。

大田区の洗足池には勝海舟記念館が別邸跡に建っていて
勝の偉業を偲ばせている。

勝海舟。遊んでてもいいじゃないですか。
皆を救ったんだから。
龍馬を育てて慶喜の面倒も見て新撰組を軽くあしらって。

(新撰組が江戸にやってきたときは近藤勇らわずか130名の部隊に
向って勝は
 「今、おまえたちが甲府城に入ればXX万石の大名になれる」と言って
江戸から甲府へ追いやった。むろん新撰組が江戸にいたのでは
無血開城の邪魔になるだけと考えてお払い箱にした話だが
この期に及んで大名になれるかもと夢見た近藤は
短絡すぎる。)

江戸市民を救って。
誰にもわからなくても勝だけには
激動の幕末を生き抜いた満足感があったにちがいない。