歴史ミステリー

8. なぜ幕末は薩長土肥なのか?

幕末の歴史を見ていると江戸時代には藩の数は大成奉還のときで
約260~270あったのになぜ薩長土肥つまり
薩摩藩, 長州藩、土佐藩、肥前(=現在の佐賀)は雄藩と呼ばれるほど
活躍の中心になっていたのだろうか?

歴史書などには薩長土肥が時代変化に対応していたからと言うが
なぜそうなったのかという根拠は示していない。

この素朴な疑問について考えてみたい。
歴史に詳しい友人に聞いてみると次のように
教えてくれた。(一部)

(1)薩長土肥は外様で大規模のまま残った

他の諸藩が分割を繰り返されていた中で地方の外様であった
薩長土肥は分割されずに生き残ってきた。
外様は幕府政治には参画できなかったので
幕政とは比較的距離をおかれていたため
分割されることにならなかった。
これに対して親藩と呼ばれる徳川に近い藩は分割を繰り返され
弱小化していった。
中には小豆島だけでひとつの藩になっていたから
いかに小さな藩ばかりであったかわかる。
)薩長土肥は中でも秀でた大きさであったのだ。

(2)薩摩藩

島津藩は一時期、九州全域をほぼ平定していたが
秀吉や関が原の合戦以降現在の鹿児島県に
縮小されている。
これは九州全域にいた武士たちが鹿児島に結果として
集められたということになった。
当時は高度な教育を受けていた武士階級が
九州全域から一ケ所に集められてパワーが密集した。
つまり九州の全域にいた武士階級がすべて
薩摩の狭いエリアに押し込められたのである。

また経済にも恵まれて軍事増強にも力を
入れたので明治には陸軍大臣は薩摩藩出身者
固められていた。

(3)長州藩

薩摩藩と同様に外様であり分割されなかったことと
かつては現在の岡山県・広島県・山口県を勢力範囲と
していた毛利藩が山口の狭いエリアに圧縮され
人材がここに集中した。
さらに貿易で長州藩は財政が豊かであり
尊皇攘夷論(=天皇を敬い外国を排斥する思想)が
高まった。

明治になってからは政治の中心は長州出身者が中心と
なった。首相の輩出も多く

伊藤博文、山県有朋、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三

など 8人の首相経験者がいる。

山口県に行ってみればわかるが隅々まで道路が
綺麗に舗装されている。

(4)土佐藩

土佐藩も上記と同様に分割はされていないが
関が原の合戦(1600年)で土佐の長宗我部氏が徳川勢力に敗れ
改易となり掛川城主であった山内一豊が土佐藩の領主となった。
山内政権は自分達を上士とし元の長宗我部一族の士族を身分下の下士の
階級として徹底的な身分制度を引いた。
武士が2つの藩からひとつに圧縮されたのと同時に
下士として抑圧された士族でパワーが生まれた。
薩長の例とはちがってひとつの地域に長宗我部氏配下の武士たちと
山内氏配下の武士たちと2倍の人数がこのエリアに集まった。
しかも上士が下士を抑圧するという強烈な身分制度が生まれた。
坂本龍馬も中岡慎太郎も下士である。
土佐藩も実は外様藩である。

(5)佐賀藩

佐賀藩は鍋島藩と呼ばれるくらい鍋島家が治めていた外様藩である。
他の三藩と違い圧縮はなかったが積極的に西洋技術を取り入れて
蒸気機関車や蒸気船の製造に成功しアームストロング砲も製造して
幕末期に最も近代化された軍事力を持つ藩であった。
ただし大成奉還までは政治には静観していたが
明治新政府の東上に佐賀藩が軍事力として加わったために
維新の成功に大きく貢献したと言われている。

—見てきたようにこれらの外様藩は江戸幕府による分割統治を免れている。
残った大きな勢力を持っていたのがこの4つの藩であったのだ。

とりわけ関が原の合戦(1600年)の結果、毛利藩を小さなエリアに
家康が押し込めたことが後年、江戸幕府を滅ぼす原動力になったとは
家康も想像できなかったであろう。
島津藩の改易も同じことであった。
家康は豊臣家意外の敵対勢力は完全に滅ぼすことはしなかった。
織田家も江戸時代まで三重県の小さな藩として残されていた。
しかし小さなエリアに押し込めたことが幕府の崩壊に繋がったのだ。

[結論]

大規模な外様大名を小さなエリアに押し込めたことが後年パワーの
爆発につながった。