歴史ミステリー

6. 逃げの小五郎

医者の息子として生まれた桂小五郎は毛利元就の末裔である。
毛利藩の桂家の養子となり桂小五郎となったが
幼い頃から秀才で藩のエリートであった。
幼いときに当時の毛利藩主に孟子の講義をしていたと
いう秀才であった。
子供のころに書いた書がまだ残っている。

やがて藩の中心となった頃に禁門の変で
長州藩は朝敵となって敗走することになり
桂も新撰組にも追われることになった。

ある料亭で新撰組に踏み込まれた桂は長持の中に
身を隠すが近藤勇に「開けろ」と言われた芸妓・畿松(いくまつ)は
「開けてもいいですが何もなかったら近藤さんは腹を切りなさい」と
真っ向から抵抗したために近藤勇は何もできなかったという
逸話が残っている。

この料亭は今も「畿松」という名前の料理旅館として残っているが
観光客が写真を撮るだけでもお金をとるというお金大好きな
料亭なのであまり行きたいとは思わない。

桂小五郎は乞食に身をやつして橋の下に隠れてこの畿松に
握り飯などを運んでもらったという話もある。
実はわが町守口にも桂小五郎をかくまっていたという民家があり
桂小五郎の書が残っているというがどこなのかはハッキリしない。

ふる里守口を訪ねて」を著した駒井正三氏がその本の中で紹介していたが
守口市本町のどこであるか意図的に伏せていた。
守口は東海道五十七次の本陣(=大名が宿泊する宿)であり
本町(=㈱オフィスクアトロの所在地)は助郷として
栄えていた遊郭の跡地あたりがそうではないかと思われる。
遊郭のころを示す小さな庭だけが今も残っている。

守口市の歴史については㈱オフィスクアトロのサイトでも
くわしく紹介していているのでこちらで

桂はまた池田屋事件でも難を逃れて逃げている。
史実には桂が早めに池田屋に着きすぎたので別の藩邸に
行っていたとあるが桂が池田屋事件については
語りたがらないところを見ると屋根づたいに逃げたと
いう説のほうが真相ではないか?
そうでなければ「逃げの小五郎」とは言われないだろう。

やがて探索が厳しくなると桂は完全に政治に嫌気がさしたのか
トンズラして但馬の出石という兵庫県の北部へ逃げて
ここで商人として人生を変えてしまって別の女性と一緒に
暮らし始めた。
これも「逃げの小五郎」と揶揄される所以である。

長州征伐が始まると長州藩は桂を呼び戻そうとするが
これが行方不明。
しかしこの近藤勇と渡り合った豪胆な畿松というこの女性は
なんと自分自身で桂を但馬に探し当てて戻るように説得したのである。
スマホも携帯もない時代に桂をどうやって探し当てたのだろうか?
桂は畿松の説得により長州に戻りそれから後の活躍はご存知のとおり。

薩長同盟のときは大河ドラマの中でも木戸貫治と名乗っていた。

木戸孝允に名前を変えてからはむろん畿松は
木戸松子として桂と結婚している。

明治に入ってから木戸孝允は岩倉使節団としてヨーロッパへ
渡ったり五箇条の御誓文や戊辰戦争の最中に版籍奉還を
提案している。
私生活で面白いのは土佐の山内容堂と酒呑み友達となり
酔っ払って二人で江戸城へ入って酔いつぶれたとか
面白そうな話が数々残っている。

(山内容堂は土佐藩の前藩主。徳川によって山内一豊が
土佐の藩主に任ぜられたことから山内家は根っからの
徳川恩顧の大名で小御所会議でも山内容堂は新政府に
徳川慶喜を入れるべきであると岩倉具視と大激論を
交わしている。王政復古のクーデターである。)

また坂本龍馬や中岡慎太郎や幕末から日清戦争以降の
戦没者の墓を京都東山の京都護国神社に作ったのは
木戸孝允であり護国神社の墓は見晴らしが良いのだが
その最上段には木戸孝允と妻・松子が眠っている。
晩年は侯爵の名誉が与えられていた。

明治の途中から木戸孝允の名前が出なくなって
不思議であった。
あれほど維新の三傑として名前を馳せたのに
明治で急に名前を聞かなくなった。
実は西南戦争の途中で木戸孝允は病気で亡くなっている。
享年はわずか43才という若さであった。

波乱の人生を生きた桂小五郎(=木戸孝允)が
大河ドラマになっていないのは実に不思議である。

この人もまた坂本龍馬と並ぶ天才であった。
同時に畿松という女性もまたスゴイ女性である。