歴史ミステリー

3. 西郷隆盛 黒幕説

前回で伏見奉行説、新撰組説、京都見廻組説には問題や矛盾があることを
示して否定した。
ただしこれらは後でもう一度精査したい部分を残している。

さてプログラマーの解く歴史ミステリーとして当初の予測は
西郷隆盛の暗躍であった。
というのも西郷隆盛という人間は正義感が強い一方で世渡りが不器用なところもあり
それでいて裏工作を好む人間であることがわかってきたからである。


  

薩摩藩は第一次長州征伐には参加しているし蛤御門の変(禁門の変)
松下村塾の天才久坂玄瑞率いる長州軍を破ったのも薩摩藩である。
蛤御門の変は京都御所の西に位置する小さな門のあたりだけで起こったのではなく
京都をそうとう焼野原にしている。
長州の天才久坂玄瑞(くさかげんずい)はこの責任をとって自害している。

話は少し逸れるのだが八月十八日の政変で尊皇攘夷派の公家と長州藩が
失脚して京都を追われて池田屋事件で長州藩の志士たちが新撰組に
大量に虐殺され明治維新が遅れたとまで言われた。

八月十八日の政変とは三条実美らの攘夷派の公家たちと
長州藩が京都を追われた政変クーデターである。
時の天皇孝明天皇は「自分が異人を嫌いだと言ったのは犬や猫が嫌いだというのと
同じつもりだった」なんて無責任なことを平気で言ってのけた。
幕末の動乱期に大きな影響を与えた孝明天皇は若くして不慮の死を遂げて
明治を迎えていない。一説によれば毒殺されたとの噂もある。

蛤御門の変は長州藩による池田屋事件の復讐であると言われている。

このように歴史は分断したものではなくつながっている。

西郷隆盛ら薩摩藩はこの長州征伐によって長州が滅ぼされてしまうと
次は薩摩も幕府のターゲットになることを恐れて第二次長州征伐には
加わらなかった。
その後薩長同盟が成立して反幕府勢力側になると薩摩藩は
武力で幕府を滅ぼすことを目標にするようになった。

鳥羽伏見の戦いとなった戊辰戦争のキッカケは軍事衝突を好まなかった
幕府に対して

西郷隆盛は浪人などを雇い入れて江戸の町で火付けや強盗、
盗みを繰り返させ

薩摩藩邸に浪人を逃げ込ませてあえて薩摩藩による
犯行を示した。
これに怒った幕府側が江戸の薩摩藩邸に大砲を打ち込んで
薩摩藩邸を完全に焼き払った。
薩摩藩はこれで幕府に反撃するという口実を得たのである。
この指令が西郷隆盛から出ていると証言した元薩摩藩の益満休之助
勝海舟は江戸無血開城のときの交渉役に立てている。

実際の交渉は山岡鉄舟であったが元薩摩藩の益満休之助を同行させることによって

あなたが裏工作で放火などさせたことはバレていますよ


言わんばかりであった。
勝海舟のほうがはるかに上である。
西郷隆盛は勝海舟との面談の前に既にイギリス公使パークスから

白旗を揚げている相手を攻撃するなど卑怯である

と迫られている。
無血開城を呑むしかなかったのである。

すべては勝海舟のほうが上である。

しかし西郷隆盛の戦争好きは止まらず無血開城したのにその直後での
  上野彰義隊との上野戦争を直接、指揮したのは西郷である。
それゆえ上野に西郷隆盛の銅像が建てられたのである。
その一方で肝心の鳥羽伏見の戦いでは直前になって
弱気になって辞意を表明したり戦いが始まっても
東寺の五重塔から鳥羽伏見の戦いの戦局を眺めて指図していた。
指揮官が前線にも出ずこんな安全なところにいて
良く勝てたものである。

岩倉具視も偽の討幕の密勅(とうばくのみっちょく=徳川を討伐せよとの天皇の偽の命令)を作り
  勝手に錦の御旗(天皇の旗)を掲げて幕府軍の士気を失わせた。
加山雄三のご先祖さまで5百円札のモデルになったこの人はフィクサーである。
小御所会議でも土佐の山内容堂を論破して王政復古のクーデター(早い話が徳川家の排除)を
行った中心人物は岩倉具視である。

幕府側の将軍であった徳川慶喜に至っては敵前逃亡で大阪城に戻り
その夜のうちに船を捜したがわからず朝になって幕府所有の開陽丸で江戸に戻ろうと
  したが艦長の榎本武揚が不在なため一旦は断られたが強引に乗船して
江戸品川に青い生気のない顔で着くや否や勝海舟

「おまえさんたちこれからどうなさる?」

と言われてしまっている。

品川へ逃げ帰った慶喜は真っ青な顔で生気はなかったといわれている

話はそれるが今の静岡県がお茶の大産地になったのは
勝海舟の力である。
勝海舟は旧幕府の侍たちに「新政府軍がいつ内府さまのお墓を攻めてくるかも
わかりないから警護するように」と彼らに自分の給料を分け与えて家康の墓の警護を
命じた。
元旗本たちは警護はしたがいっこうに誰も攻めてこない。
「これで給金をもらうには忍びない」と山を降りてきたので

「それではお茶の栽培でもやりなさい」

と言って島田をお茶の産地にしたそうである。
勝海舟は「武士たちの不満を取り除くのは何でもない」と言ったそうである。
  一方、明治になって不平士族の反乱は絶え間なく最後は西南戦争にまで
発展してしまう。

やはり勝海舟が上なのだ。

さて西郷隆盛は戦争がしたくてたまらなかった。幕府に戦争を挑んで
軍事的に幕府を滅ぼしたかったのである。
しかし大成奉還ということになれば白旗を揚げている相手に対して
戦争を起こす大義名分としての口実を失ってしまった。

自分が考えも及ばないところで自分の行く末を平和的に解決してしまう
坂本龍馬は邪魔な存在でしかなかったはずだ。

とにかく龍馬は頭がいい。次は何を考え出すのかわからない。
勝海舟との面談の場でも西郷隆盛は

「何やらむつかしい議論もあるでしょうが、ここは…」

という表現をしている。
西郷隆盛はあまり難しい議論は苦手なようである。

西郷隆盛は後になって山形有朋など明治政府が酒と女に溺れるのを見て怒って
下野するほど正義感が強いのだが征韓論でも「わしが朝鮮を怒らしてわしを殺させるように
仕向けるのでわしを殺したことを口実にして朝鮮を攻めればよかろう」というほど
まあ裏工作が好きなのと論理が単純でなのである。

となると頭のいい龍馬の立案は邪魔でしょうがなかったはずである。

もうひとつ西郷隆盛を私が疑ったのは実行犯である京都見廻組今井信郎(のぶお)
禁固刑になったにもかかわらずわずか2年で西郷隆盛の命によって恩赦で釈放されて
いるからである。

これはできすぎていると感じた。
それで私は西郷隆盛ことが性格的にも関連が近いと感じたのである。

しかし後で知ったのはこの恩赦では今井信郎だけが釈放されているわけではなく
旧幕府側の榎本武揚など多くが釈放されている。
榎本武揚には木戸孝允など長州藩が厳罰を求めたが黒田清隆などの助命運動によって
釈放されて後年、逓信大臣や文部大臣などを歴任して明治政府に貢献している。
  今井信郎も多くが釈放されたうちの一人に過ぎなかった。

坂本龍馬の訃報に接しては西郷隆盛も大いに落胆しているとも伝わっているところを
見れば西郷隆盛の暗躍には論理的証拠が乏しくなってきている。

近江屋事件で犯人が名乗り出ないのは味方こそが犯行したと
考えて最も見方であった薩摩藩を疑ったのだが
犯行の論理に乏しくなってきたのである。
近江屋事件のころは西郷隆盛も幕府とは距離があったので直接的に影響力は
乏しかったせいもある。

  それでは次回はいよいよ坂本龍馬暗殺の真犯人に迫ってみよう。