歴史ミステリー

2. 坂本龍馬暗殺の黒幕は誰だ ?!

歴史ミステリーを考えるキッカケになったのは坂本龍馬暗殺事件である。
一時期、大河ドラマの「竜馬伝」が放映されているころには大いに話題になった。
自分たちプログラマーの論理思考力がどこまで試せるか挑戦してみたいと
思ったものである。

坂本龍馬を殺害した実行犯と黒幕がいるにちがいないと言われたものである。
この事件をミステリーにしているのは龍馬の敵があまりにも多かったからと
言われている。
一般に囁かれている黒幕と実行犯について挙げてみよう。

1.新撰組犯行説

2.紀州藩説

3.土佐藩・後藤象二郎黒幕説

4.薩摩藩・西郷隆盛黒幕説

5.中岡慎太郎同士討ち説

6.その他

・寺田屋事件を推理する

さてこれらを解析する前に龍馬が近江屋で殺される以前に
龍馬が伏見の寺田屋を常宿にしていたときに伏見奉行所に襲撃されるところから
話を始めねばならない。
寺田屋では龍馬の恋人であったお龍さんが入浴中に奉行所の捕り手に囲まれているのに
気づいて裸のままで2階の龍馬に知らせたことは有名な逸話として残っている。

しかし実際に寺田屋に行ってみればわかるのだが風呂場は寺田屋の一階のはるか
奥のほうにありわずかな窓は外の道には面していない。

2階の刀傷が残っている部屋は2階に上がってすぐのところで
龍馬は屋根づたいに飛び越えて逃げたということになっているが
隣の家の屋根に逃げられる部屋は確かにあるのだが2階に上がって右のすぐの
部屋なのであまり双方ともに戦うスペースがない。

龍馬は長州の桂小五郎からもらった拳銃を発射して難を逃れたとある。

多くの学者は龍馬はこれでお尋ね者となって近江屋事件の原因となったとしているが
それでは合理性を欠いている。
近江屋事件では龍馬を犯人として捕縛する気は毛頭なく

・龍馬を捕縛するのではなく殺すことが目的である。

いきなり龍馬達を切りつけているし寺田屋事件のときのように
周りを人手で囲んでいない。

・幕府側の犯人逮捕の公務であれば正々堂々と名乗っているはずである。

・十津川郷士と偽の名刺で名乗っている。

・龍馬たちを殺したことを犯人は公言していない。

龍馬襲撃の正義があるなら手柄として公言して自慢するはずであるが
していない。

これでわかるように伏見奉行所が龍馬を犯人として襲撃するのは
おかしい。奉行所なら公務であるので正々堂々と名乗って
表から挑むし捕縛が任務であるので問答無用で殺すことはしない。
襲われた中岡慎太郎は「新撰組に違いない!!」と言っているが
それは新撰組に襲われる可能性が高かったからであろう。
新撰組のせいであれば新撰組の性格からして龍馬を殺害した!!
と手柄をふれまわるはずだがしていない。
明治になるまでは新撰組の仕業と思われていたようである。

逆に近藤勇

「俺達が疑われているから気をつけろ」


部下たちに言っている。
新撰組が疑われたのは新撰組がよく出入りしていた瓢亭の下駄が
残されていたとの話があるがこれはずいぶん後になって出てきた
話である。

瓢亭はゆで卵を旅人に振舞うことや祇園で朝まで飲んでいた客に
朝粥を振舞うことで有名になった店で当時は今ほどの高級な店ではなく
南禅寺の近くに位置している。
これは新撰組が祇園で飲んだとしても帰り道とは逆の方向で
かなり距離もあるので新撰組がひいきにしていたとは思えない。
南禅寺は地下鉄東西線の蹴上の近くで東山のふもとである。
西に屯所のあった新撰組が酔っ払ってわざわざ琵琶湖疏水まで
酔いもあるのに東山への坂道を登るだろうか?

近江屋に最初に駆けつけた谷干城も新撰組の犯行を否定している。

海援隊は陸奥陽之助(宗光)を中心として紀伊藩の仕業とみて
仕返しとして天満屋にいる紀伊藩士を襲ったのだが
会津藩より警護を命ぜられていた新撰組によって
十津川郷士である中井正五郎が逆に殺されている。
いろは丸事件で多額の賠償金を龍馬に払うことになった紀伊藩が
犯人という可能性は確かに高いのだが龍馬の死後
7万両の賠償金を支払っている。

龍馬を殺害した犯人が名乗っていないのは

・名乗ることができない。

つまり

-卑怯であるとのそしりをまぬかれない人物が
犯人である。

それは

味方か、または敵側である

が殺すまでは卑怯だと
非難されるべき人物である。

・複数人で襲撃しているが多人数ではない。

寺田屋では多くの人数で取り囲んだのに龍馬を
逃がしているが多くの人数で近江屋を囲んでいないのは
組織全体の犯行ではないことを示している。
つまりある組織の犯行だとしても組織全体の命令による
犯行ではなく一部による秘密裡による犯行と考えられる。

・新撰組は犯人ではない

新撰組の仕業として疑われたのは

・京都の料亭:瓢亭の下駄が残されていた。
・刺客が「こなくそ」という伊予弁を使っていたのは
新撰組の原田左之助ではないかという説
・襲われて2日後に絶命した中岡慎太郎が「新撰組にちがいない」と
言ったから
・暗殺といういきなり狼藉を行う殺人者集団として新撰組は
当時恐れられていた

のような理由があるが

・坂本龍馬は当時、有名ではなく新撰組が襲っても手柄にはならない。

(龍馬が有名になったのは司馬遼太郎が新聞に「竜馬がいく」を連載したから。
司馬遼太郎は若い高知県出身の新聞記者に坂本龍馬の話を書いて欲しい、と
頼まれるまで司馬遼太郎も坂本龍馬のことは知らなかった。
それほど龍馬は無名であった。)

・新撰組であれば手柄として大いに皆に吹聴するはずだがしていない。
・新撰組であれば池田屋でのように堂々と正面から名乗って襲撃するはず。
多くの人数がいた池田屋でも名乗っているのにたった2人しかいない
近江屋で名乗らないはずはない。
・新撰組の仕業という噂が出ても近藤勇は「俺達が疑われているらしい」と
言っている。新撰組ならそれを聞くと手柄として自慢するはずだが
していない。

…つまり新撰組犯行なら大いに鼓舞するはずだが何もしていないし
姑息な襲撃の方法自体が単純な新撰組の手法として似ても似つかない。
新撰組犯行の可能性はない。

・後藤象二郎説も全くない。

後藤象二郎が龍馬の大成奉還の手柄を独り占めしたいから等という説は
全く荒唐無稽な話である。
後藤象二郎は明治になってからは明治政府の参与というわずかしかいない
明治政府の中枢にあり大阪府知事も勤め征韓論で敗れて下野したものの
板垣退助とともに議院設立建白書の提出に関わるなど
またビジネスでも岩崎弥太郎三菱を売却して報酬を得たり
明治維新の功績を受取るなど華々しい活躍をしていて
大成奉還の手柄などどうでもいい活躍をしている大物である。

・京都見廻組実行説

大正時代になって元見廻組の今井信郎らが京都見廻組の佐々木只三郎の命によって
実行したと証言しており禁固刑として投獄されたものの西郷隆盛による恩赦によって
今井信郎は2年後に解放されている。
また京都見廻組の佐々木只三郎の実の兄で手代木直右衛門(てしろぎすぐえもん)が
亡くなる直前に龍馬暗殺は弟・佐々木只三郎が

桑名藩のお殿様の命によって
2人の部下を率いて蛸薬師にある坂本龍馬を襲った

と死の間際に証言している。

なるほど近江屋は蛸薬師通りに近いのだが近江屋に実際行って見ればわかるのだが
ここは蛸薬師通りではなく河原町通りである。

京都の地名は平安時代から変わっておらず蛸薬師通りというのは横方向のとおりの名前
である。
これに対して近江屋は縦方向の河原町通りにあって今ではカッパ寿司という
回転寿司屋になっている。
この場所は四条河原町と言ったほうがとおりがよく京都の地名は横+縦の地名で
表現することが多い。
四条河原町は京都の最も有名な中心街であり四条河原町のことを
蛸薬師通りという人は絶対いない。
なぜ蛸薬師通りというあいまいな表現をしたのだろうか?

京都五条の坂本龍馬の墓がある護国神社の前に霊山歴史館という歴史資料館が
あるがここには佐々木只三郎の部下で桂早之助という人物が坂本龍馬を
切ったという小太刀が展示されている。
桂早之助は龍馬を殺害した後、鳥羽伏見の戦いで28才で戦死している。
佐々木只三郎自身も鳥羽伏見の戦いで今の枚方市樟葉で腰に銃弾を受けて
重症を負い和歌山の紀三井寺に逃れたものの苦しみながら38才で亡くなっている。
兄の手代木直右衛門は「貴様は多くの人を切ってきたのだからこれくらい苦しむのは
当然だろう」と言って笑ったという。

佐々木只三郎たちは龍馬を襲った後、見廻組は京都御所の西のほうにある
見廻組屯所まで走って帰り屯所で祝杯を挙げたと伝わっている。
逃げて帰る途中で脇差しを落として刀の身のままを腰にさして走ったとの
生々しい話も残っている。

しかしこの京都見廻組実行説にも疑問が残る。

手代木直右衛門は

「坂本は深く幕府の嫌忌を買ひたり…
只三郎は所司代桑名侯の命を受け坂本を斬殺せしめたる… 」
と死の間際に語っている。

京都所司代の桑名藩主松平定敬の命令で龍馬を殺害した

語っている。

– なぜ桑名藩が見廻組に龍馬暗殺を命令するのか?

京都見廻組は会津藩の下部組織であり当時の会津藩は財政に苦しく
京都見廻組約400名で京都の二条城京都御所近辺の警護にあたることで
幕府から援助をもらって藩の財政を助けていた。
会津藩主松平容保(かたもり)も京都に在住していた。
松平容保は京都守護職を務め見廻組は京都守護職の組織である。

確かに桑名藩主松平定敬は会津藩主松平容保の実弟であり
幕府に尽くす立場に変わりはないが松平定敬は京都所司代
一員であり定敬が命ずるのであれば直轄の京都所司代に
命じたはずである。
実は尾張藩主の徳川慶勝と会津藩主の松平容保、さらに
桑名藩主の松平定敬とは実の三兄弟で明治になってから銀座で
再会を果たして記念写真を撮っている。

– 歴史家は龍馬襲撃は公務だと言うが

龍馬襲撃が公務だというなら

– 400名もいる見廻組のなのになぜ数名だけが隠密裏に動いたのか
– 公務というなら捕縛を試みないのはおかしい。

偽の名前を語るのもおかしい。

– 公務というなら報告書があるはず。

当時と言えども
かなり詳細な報告書は義務づけられていたので残っているはず。

-公務なら京都所司代が見廻組に命令するのはおかしい
– 松平定敬に報告したのであれば褒美のひとつも受取ってはいないのか

– 佐々木只三郎の個人的判断によるものであれば

– 公務ではなく個人的恨みなどでそれに部下も賛同したのであれば
前述の矛盾は生じない。

– これは公務ではなく暗殺であるので自分達がやったということは
公言できないので実際と矛盾は生じない。

– 指揮命令によらない佐々木只三郎の個人的動機によるものであれば
それほど決心させた動機が必要。
今のところ肝心の動機が不明。

歴史家という人達は簡単に矛盾が出てくるような論旨を語りすぎる

・西郷隆盛黒幕説

少し前まで私は西郷隆盛による暗躍が一番怪しいと思っていた。
それでは次回は西郷隆盛の暗躍について考察してみよう。