歴史ミステリー

21. 菅原孝標女

先日、大津に行ったついでに石山寺を参拝した。

■石山寺

滋賀に住む友人が石山寺は有名だといつも自慢していたので
どんなところかと訪ねてみた。
石山寺は京阪石山坂本線の終点の石山寺駅より瀬田川沿いに
歩いて10分ほどのところにある。

後でわかったことだが石山寺駅より逆に琵琶湖方面に歩けば
あの有名な瀬田唐橋に到達する。
(唐橋を制する者は天下を制する)

さて石山寺は仁王が迎えてくれて中に進むと
文字通り石の山が積み重なっている。

■源氏物語

石山寺が有名になったのは紫式部がこの石山寺の本堂脇の
小部屋に数年篭って源氏物語を書いたとされる小部屋が
今も残っていて紫式部の人形などが置いてある。

■菅原孝標女

源氏物語にまつわるある少女の物語を紹介しよう。
少女は菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)である。

つまり菅原孝標という平安貴族の娘である。
娘というだけで名前はわからない。
 なぜ名乗らなかったのか不明であるが
百人一首の選者である藤原定家までが菅原孝標の女と
 称しているのが不思議である。
 実は彼女がこの物語を書いたというのも
藤原定家が「菅原孝標女が書いた」と言っているので
わかったというだけで本人は黙して語らずという
ことである。
今回はこのミステリーを解明してみよう。
菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)とは一体誰なのか?
なぜ名前を名乗らず自分のことを
一行も書かなかったのか?

■少女時代

 

菅原孝標女は今の千葉県市原市の生まれでそれで
 市原市に菅原孝標女の銅像があるようだ。
 (名前はわからなくても銅像は作れる?)

 彼女は10才のころから義母や乳母から源氏物語の話を
 聞かせてもらい大変感動していたとのことである。
 それで壁一面に薬師如来像を等身大で描き
 早く京に行けるように願ったそうである。
 (平安時代の女性はすごい!!)

■京に登る旅

 

願い叶って13才のときに京に上り
 三条坊門小路(今の御池通り) X 高倉通りの西の邸宅に
 住むことになった。
 何と京都の地名は平安時代から変わっていないらしくて
 今もその地名が存在して小さなビルが建っている。

 京に来ると清少納言の枕草子を始めとして
 ようやく

源氏物語

も手に入れることができ
 物語を読むことが大好きな少女へと成長していった。
 当時は身分の高い人が読んだ書物は臣下などに
 渡す風習があったようで天皇家が菅原孝標女を
 めずらしがったようである。

■別離

 

やがて義母は離婚して家を去り乳母も亡くなった。
 少女はこの悲しみを後年に綴ることになる。
 32才のとき父は隠退して独身のまま家長となり
 姪御などを育てることになった。

■出世街道

 

そして38才のときには時の権力者である関白藤原頼道から
 宮仕えに出仕するようになった。
 仕事は宮中で藤原氏一族の栄華を称える物語を
 執筆することであった。
 歴史が権力者によって書き換えられるように
 このころ流行の物語を創作して藤原氏を後押しすることが
 目的であった。
 こうして孝標女は物語の執筆することで出世の階段を
 駆け上がっていった。
 頼道の力から夫も出世して姪御たちも宮仕えになったのも
 すべて関白藤原頼道の力であった。
 孝標女はやがて皇太子の乳母になり天皇の寵愛も
 受けたいと考えるようになった。
 夢見る少女は権力者への憧れと変遷していったのだ。

■失墜

 

よいときは長く続かず急に天皇が崩御して
 皇太子のいなかった天皇の位は弟に引き継がれた。
 天皇の継承を目論んでいた藤原頼道の権威は失墜し
 藤原家の力は急激に衰えることになる。
 孝標女は新しい天皇を認めたくなく一時は京を
 離れてしまう。

■回顧

 

夫も病死して53才で独り身になったとき
 孝標女は初めて自分の人生を振り返り回顧録として
 あの

「更科日記」

を2年で書き下ろした。
 10才から今までのことを思い出して一気に書き下ろしたのである。
 長野県に姥捨て山という年老いた母を捨てにいく山が
あるが更科というのはその山のふもとの地名である。
 孝標女は更科日記の中で年老いて誰も自分のところに
 訪ねてくる人はいないと書いている。
 孝標女は自分が物語りが好きであったのに
 それを出世の道具にしてしまったことへの自戒の念から
 自分の名前を名乗らなかったのである。
 自分の本名のことにはただの一行の記述もない。
 ある現代の文学者はこの孝標女の気持ちを
 涙ながらに語っていたのが印象的であった。

 石山寺に残る孝標女の画

■人生

 
 

しかし孝標女は更科日記の後に

浜松中納言日記

を書いて
 大いに評判を集めている。
 あの三島由紀夫は自分のある小説は浜松中納言日記
 着想をそのまま貰い受けたものだと文後に語っている。

 石山寺に勤めているある女性は
 菅原孝標女も石山寺に篭ったと語ってくれた。
 そんなことはないだろうと思ったが文献を調べてみると
 やはり孝標女も石山寺に参篭したとあった。
 彼女もまた紫式部と同じ気持ちになりたかったのだろう。

 物語が大好きな少女は出世の誘惑に駆られたときも
あったのだが晩年には自分の大好きな物語を
やり遂げたのである。

 

孝標女は最期はどうなったのか全く記録はない。
 しかし1000年の時を経てもなお私達に感動を与えてくれている。
 
 最後に菅原という姓に聞き覚えはないだろうか?
そう菅原孝標女とはあの菅原道真の6代目の子孫である。