歴史ミステリー

13. 信長の不思議な行動

本能寺の変には不思議な疑問がいくつも出てくる。
それらの疑問を少しずつ解明することによって
本能寺の変全体が見えてくる。

まず最初に信長は本能寺の変に当たって実に不思議な行動をしている。
本能寺の変の少し前から歴史の推移と信長の動きを見てみよう。

   3月に宿敵の武田家を滅ぼした信長は武田の甲府領を通り
わずかな供だけで富士山を愛でながら家康に与えた駿河を
通って4月の終わりに安土城に意気揚々と戻った。

(1) 最初は秀吉の援軍要請に始まる

信長は徳川家康を安土城に招いて光秀に家康への饗応役として接待をさせていたのだが
そこに秀吉からの援軍要請5月17日に信長に届くことから話は始まる。
秀吉は備中松山城(現在の岡山)を水攻めにしていて敵の清水宗治以下5000名の部下を
松山城に孤立させていた。
秀吉は岡山の5ケ国の割譲を要求していてほとんど勝ちも同然であった。
このとき毛利輝元側は小早川隆景、吉川元春の援軍は来たのだが
毛利の弾薬はすでに尽きお手上げの状態であったことを毛利輝元から部下への書状が
残っている。
秀吉側が既に村上水軍の3つのうち2つを味方にして堺からの補給路を断っていたからである。
このようにほぼ勝ちを手中に収めた状況であるのに秀吉は信長に「上様、自らお越しください」と
援軍の要請を行っているのだ。
    これは信長に手柄を与え、さすが上様と主君の立場をヨイショするものに他ならない。
信長もそのことはよく承知していたようである。
    後に毛利側にも信長が大軍を率いて援軍にやってくるという噂は伝わっていたようだ。
ここまでは異論のない史実であると思われる。

(2) なぜ信長は自分ではなく光秀に援軍を任せたのか?

さて秀吉は「上様、自らご出陣を!!」と信長を持ち上げるための援軍要請をお膳立てして
出したのに信長はなぜ自らが出向くことなく光秀に任せたのだろうか?
     光秀は秀吉からの援軍要請が来た同じ5月17日には近江の坂本城に戻っている。

光秀の家康への接待役が失敗であったため饗応接待役をクビにして秀吉の加勢に変更したとの説もあるが
有名な「魚が腐っている!!」との信長の逆鱗の話は江戸時代になって作られた創作である。
この江戸時代の創作によれば光秀が接待役をクビになったことに腹を立てた光秀の家臣達が
接待用に用意した料理を安土城のにぜんぶ捨ててしまってお堀には悪臭が立ち込めたとあるが
山城であった安土城の一体どこに堀があったのだろうか?
歴史学者はこの矛盾に一言も付け加えていない。

     さて光秀は信長が秀吉からの書状を受取った翌日には安土城を出ている。
     そして援軍の準備のために5月26日には丹波に戻っている。
信長が本能寺に出発するのはそれからしばらくした5月29日である。
それでは信長はなぜ光秀を援軍としたのだろうか?
     信長自身が中国地方に遠征するつまりであったことは間違いなく
     安土城の留守居役に

戦陣の用意をして待機、命令あり次第出陣せよ

と命じていることがわかっている。
それは翌日からの本能寺にて公家や商人を集めて茶会を開いて茶具を披露したり
自らも堺商人から茶器の購入を行いたかったからではないだろうか?
京都は5日間の滞在で6月5日以降に出陣する予定であったと
伝えられている。
すぐに公家や商人達が集まっているところを見るとこの本能寺での茶会は以前より
予定されていて通達されていたものと推測できる。
主催者は関白の近衛前久であった。

にしても自らは武士であり戦国時代の真っただ中でありながら信長は自分ではなく
光秀を応援の代役に立てたのだ。
これは
①ほとんど勝ち戦さであり自分が出て行かなくても勝てると判断していた。
これは秀吉の書状からもその状況が伝わっていた。

②以前から予定していた茶会は自分の趣味として大事であり
戦さよりこのときは趣味に没頭していた。

③部下では光秀が残っていたし明晰な光秀にまかせれば問題ないだろうと
考えていた。

. . .つまり援軍の姿さえ見せれば勝てる戦いであり戦うまでもなく毛利側は
和議に応じるだろうと判断していたし事実、毛利側には先に書いたように
戦力は残されていなかったのである。
信長側の戦術は毛利を滅ぼすことではなく和議に応じさせることだったのだ。
秀吉が毛利に示した和議の条件は秀吉が勝手に描いたものではなく
当然、信長からの指示の通りであったのだろう。

(3) なぜ信長は本能寺に泊まったのか?

信長にとって本能寺は常宿ではなかった。
信長の京における常宿は妙覚寺であり20回宿泊している。
妙覚寺の近くの二条御新造には14回宿泊しているのに
この夜に信長が泊まった本能寺はわずか4回目であった。
本能寺が常宿であったかのように解説されることが多いが
通常は本能寺ではなく息子の信忠がこの日泊まっていた妙覚寺に
   宿泊することが多かったのだがこの日は信忠が500名の兵を従えていたために
信忠に譲り自分は本能寺に宿泊したようである。
つまり通例では信長が本能寺に泊まることは滅多に無かったことを
覚えてして欲しい。

   妙覚寺     二条御新造    本能寺
   20回     14回       4回

   ちなみに本能寺は惣構(そうがまえ=堀などに囲まれた要塞)などでは
なかった。
確かに小さな堀か発掘されているがわずか数メートルの幅しかなく
要塞などとはいえない。これも一部の歴史家は本能寺は要塞のようであったと
   言うが全く的はずれで堀は人がジャンプすれば飛び越えられる程度。
おまけに本能寺は洛中の外に位置していた。
洛中は塀で被われていて夕方になると門が閉められ外からは
入ることはできない。
光秀は本能寺は洛中にあるのではないかと疑って使いの者を
送って門番を調べさせている。
つまり光秀は本能寺は初めてでありほとんどくわしく知らなかった。
おまけに本能寺の周辺は田畑に囲まれており無防備で
    地形はくぼみの一番下にあり攻めやすい場所である。
守るには全く裸の状態であった。
歴史家の言う要塞どころかその逆であることが明らかである。

(4) なぜ信忠も京都に来ていたのか?

信長の嫡男である信忠が500名の部下とともに信長と来たので信長は妙覚寺ではなく
本能寺に泊まることになった。
6月2日に四国遠征に待機していたのはこの日大阪にいた3男の信孝である。
信長は嫡男の信忠に自分の右大臣の位を譲るために朝廷に返事を
聞きにきていたらしい。
そのため信忠には500の兵をつけて妙覚寺の宿泊を譲ったと思われる。
14回泊まっていた妙覚寺の近くの二条御新造は信長が建てた自分の
宿泊所であるが皇太子に譲っていたので残りは本能寺だったと
いうわけである。
したがって信忠と2人で上洛したために本能寺に泊まることになった。
それほど本能寺に泊まる機会は稀れであった。
それまでの信長は公家と話すことは「面倒くさい」と称していたが
6月1日は上機嫌で公家たちとも談笑していたとのことである。

(5) なぜ信長は本能寺で無防備だったのか?

本能寺では信長の警護には2~30人程度の部下しかしなかったとされている。
この原因に対して歴史学者は「信長の部下は全員、応援に出ていたので誰もいなかった」と
説得力のない非論理的な説明を展開している学者がいた。
   先に紹介したように信長は留守居役に「戦陣の用意をして待て」と
命令している。主力部隊はまだ温存されているのだ。

①戦国武将は自分の身辺警護の部下をすべて応援に出すなどの無計画なことはしない。
    トイレの部屋は槍が届かない広い部屋にし、座る畳は二重にして床下からも槍が
届かないようにしていたのが戦国武将の用心深さでである。
身辺警護の部下まで全部、前線に送つてしまうようなバクチはしない。
まして猜疑心の強い信長のことである。ありえない話。

②本当に部下がいないのなら部下のいない信長のところへなぜ秀吉が援軍の要請を
行ったのか? 秀吉は当時信長の№3であり、お家の事情くらいは精通ししていたはずである。
秀吉は「上様自ら」と言っている背景には信長の直属の部下がまだ十分いることを
知っていたからの他ならない。
     調べてみると信長は自分の直属の部下に「安土城にて出陣の用意をするように」と
指示していることがわかった。
     光秀が安土城に入ったときは誰もいずにもぬけの空だったとあるが。
   どうも歴史学者の説明は極めて説得力に欠けるものである。

③秀吉は本能寺の変を知ったあくる日には毛利側と和議を結んでいて
急に和議を結んだように見えるが話はもう煮詰まっていたと言われている。
繰返しになるがそれならばなおのことほぼ勝てる決着が迫っていたと言える。
つまり過度な戦いを挑まなくてももう勝負はついていた戦いだったのだ。

④この500名の兵は本能寺の変を知ると怖がって離散してしまっているので
これは傭兵であり桶狭間の合戦を戦い抜いた信長の精鋭の部隊ではない。

⑤光秀が瀬田の唐橋に本能寺の変を告げる手紙を送ったところ信長の部下が
瀬田の唐橋を落としてしまっている。つまり信長に忠誠を誓う信長の部下は
     厳然として残っていたのである。

⑥先に紹介したように甲府から駿河を通り安土城に戻る道でも
信長はわずかな供しか従えていない。
このような信長の行動は本能寺のときだけではなかったのだ。

  … このように歴史学者の説明はすぐにでもわかるような矛盾に満ちていて
理論的な説明にはなっていない。
信長は趣味の茶器に気をとられるあまり無防備な本能寺に行ってしまうミスを犯したのだろう。
わずかでもあってはならない心のスキだったのだろう。

     宿敵の武田家を滅ぼした直後には信長といえども油断があり
趣味に興じてしまったのだ。