大河ドラマで豊臣兄弟を放映しているが
その中での歴史ミステリー№1と言われているのが
ご存じ「本能寺の変」であるが
論理的に史実を積み上げていけばこれほど
簡単に解決するものはない。
解決できないというのは歴史家と言われるお偉い先生の
思考が論理的でないからである。
■定理. 史実から論理的に詳細できる仮説は史実と同じ
歴史的事実と同じで正しいとみなすことができる。
このことが歴史家の先生は理解できていない。
アインシュタインの相対性理論も最初は単なる仮説であって
観察によって正しいとみなすことができるようになった。
それまではニュートンの万有引力ですべての物理現象を
説明でしていて万有引力が正しいとみなされていたのだが
万有引力では説明できない現象が出てきたのである。
歴史もこれと同じで史実(=歴史上正しいとみなされる事象)
から論理的に証明されて他の史実と矛盾を起こさない仮説は
歴史的事実として証明可能な事実とみなすことができる。
つまり万有引力が矛盾が出ない限り正しいと見なされてきたのと
同じ理屈である。
■謀反は計画的なものではない
①5/29日に秀吉に弾薬を送っている
光秀は謀反直前の5月29日には秀吉に向けて
大量の弾薬を送っている。謀反が計画的であれば
敵になる秀吉に弾薬を送るようなことは絶対しないはずである。
従って5月29日のこのときは光秀には謀反の意思は全く無かったと言える。
有名な光秀の愛宕山権現で「時は今雨がしたしる五月かな」と
詠んだのは5月28日であるので愛宕山詣でのときは全く謀反の様子も
なかったはずで後年秀吉が光秀が謀反の心があったと意図的にこの句を修正した
という説がある。
しかし誰にも知られてはならない謀反の計画をにおわすほど
光秀はバカではないだろう。
歴史学者のこのようなこじつけは幼児性を感じる。
②戦術の計画性は無かった
信長親子は分かれて投宿していたのに1万以上の兵を分散せずに
本能寺にばかりに集中させた。
このため信長嫡男の信忠が逃げられる時間を十分与えてしまった。
信忠は自害したがそれを介助した者は逃げきれているので
十分逃げ切れる時間があったことになる。
これも光秀の部下から戦力を分散して妙覚寺にいた信忠を
討つように再三助言された上ようやく兵を向かわせたもので
まるで戦術を事前に考えていなかったことがよくわかる。
光秀はかなり焦っていたことがうかがえる。
③敵は本能寺にあり
とは言わなかっただろうとは今の定説でこれは
江戸時代に語られた名セリフのようだ。
ただし足利尊氏が謀反を決心したと言われる同じ寺院で
休憩したとの記録がありそこで主要な部下たちに初めて打ち明けたようであるが
事前の主要な部下の家族を人質にとっており光秀の疑い深さと人心のなさを
感じてしまう。
光秀は亀岡から老いの坂峠を下って嵐山経由で本能寺へ向かったと記録にあるが
筆者の先祖の墓があるので老いの坂峠はよく通るが当時の行軍では
真っ暗闇の中を歩いたのだと思う。
③謀反後も右往左往するばかり
謀反の後の一週間ほどが京都じゅうを無計画に右往左往している。
ようやく安土城に行くことを思いついたもののいつものように
様子見の先兵を送ったためにまた瀬田の唐橋を落とされて
修復に無駄な日数を費やしている。
光秀の先兵は秀吉軍に捕まって謀反をょ秀吉軍にバレる失敗を
また瀬田の唐橋でも犯している。
④謀反後に周辺の武将に味方の依頼を
謀反を起こしてから慌てて周辺の武将に言い訳じみた内容を
手紙で送っている。
謀反を事前に計画していたものであれば周辺の武将の意向を
事前にさぐることぐらいはしているはずてあるが
それも全くない。
…このように急襲の仕方といい計画性があまりにもない、
とっさの思いつき行動であることが明白である。
■黒幕はいない
黒幕は全くいない。もし黒幕と通じていたのであれば
謀反後に黒幕に連絡し会うはずであるがそのようなことも
なかった。
それに黒幕がいれば計画的な謀反であったはずだが
前述のように無計画な突発的な謀反であったので
黒幕はいない。
家康が黒幕ならどうして家康は命からがら逃げなければ
ならないのか?
計画性がないということは黒幕もいないということである。
■ 怨恨ではない
光秀が謀反を起こしたのは家康接待の失敗などで
信長からひどく叱られたことに対する恨みによる
謀反ではないという説が多いがこれは全くない。
なぜなら本能寺で信長がこれを謀反と知ると
「城之介(=信忠)が別心か?」と真っ先に自分の嫡男である
信忠の謀反ではないと発している。
普通、謀反というと戦国では家臣からの謀反が
多いはずなのに光秀を全く疑うことをしていない。
しまり光秀に対して謀反を起こされるような
ひどい仕打ちをした覚えはないということである。
つまり領地没収の手紙も送ったことはないということになる。
光秀により謀反と知ったときに信長はあの有名なセリフ
「是非もなし」と言ったのは謀反を起こされる理由が
わからないというのが信長の感想であったのだ。
■謀反を思い立ったときが特定できる
秀吉に弾薬を送ったときはまるで謀反の気などなかった。
しかしその後の謀反までに起こったことと言えば
信長の側近の森蘭丸からの手紙を受け取ったことである。
従って手紙の内容が謀反を起こすきっかけになった
怨恨ではないということを信長自身が語っているのだから
この書状が謀反のキッカケになった可能性がかなり高い。
■ 領地召上げの命令
謀反の前日に信長の側近の森蘭丸からの書状を届けたのは
前田利家の家臣である
「出雲・石見の二カ国を与えるがその代わりに、丹波と近江の志賀郡を召上げる」
①命令文の不自然さ
人が話すときは主文は後半にある。本来ならば丹波を召上げるが出雲・石見を
与えるというべきでこの命令は不自然である。
②秀吉軍が交渉していたのは岡山であり出雲・石見はまだ毛利のはるか奥の領地である。
③最大のおかしい点は石見(いわみ)を光秀の領地として与えると信長が命令として
告げていることである。石見(いわみ)は当時でも全国的に有名である世界最大の
銀の産地である。将軍義昭に信長が堺を領地として願ったり楽市楽座を
設けたりと経済観念の発達していた信長が当時では金より高価とされていた銀の
産地を部下の光秀に渡すはずがない。
江戸時代でも佐渡島は幕末まで天領すなわち幕府の直轄地であった。
光秀にもう少し判断力があればこの「石見を」というくだりでこれは
ニセの書状だと見破るくらいの知恵があってもよさそうなものである。
もちろん現代の歴史学者もこれくらいのことには気づいて欲しいものである。
④もしこの命令書が本物の信長からの命令であれば本能寺で
謀反と知ったとき信長は真っ先にこの命令のせいかと光秀を疑ったはずであるが
実際は「城之介(=信忠)か?」と言って光秀を思い浮かべていない。
謀反人が光秀と分かった後も「是非もなし」と答えたのは理由がまだ
わからないからである。つまり物覚えがない。心当たりがないということである。
…この①~④によってこの信長からの命令は明らかに偽物である。
出陣と同時に自分の領地は失われ行く先のない状態に追い詰められれば
謀反しか解決の道はなかったというのも当然かもしれない。
この領地召上げの命令が謀反につながったのはほぼ確実である。
■ このニセの書状を光秀に送った者こそ犯人
世界一の銀の産地石見(いわみ)を光秀の領地として与えると言った
このニセの書状を送って光秀を窮地に追い込んだ者こそ
光秀に謀反を起こすキッカケを作りこのシナリオを描いた犯人である。
それは誰なのか?
そんなことを考え付く策士がこの舞台にいたのか?
次回はそれを探ってみよう。
