いよいよ本能寺の変を仕組んだ人物を特定しよう。
論理的に追い詰めていくとおのずと首謀者が浮き出てくる。
■ 光秀にニセの書状を送れた人物とは?
①京都の情報につねに精通していて京都方面に
自由に指示できて動かせる配下を持っている人物
②織田家の内部情勢や光秀の性格も良く知っている人物
③毛利家の領地の事情にもくわしい人物
④光秀が加勢にやってくることを知っていた人物
という条件が必要である。
■光秀を謀反に向かわせた台本
光秀は信長が本能寺にいることをどのようにして
知ったのだろうか?
実は本能寺は信長の常宿ではなくほとんどは妙覚寺に
泊っていて妙覚寺に20回の宿泊で本能寺にはこの日を
入れてわずか4回である。
この日は妙覚寺を嫡男の信忠に譲って自分は本能寺に
宿泊したことになる例外的な日であった。
となるとそれを光秀に伝えたのはやはり偽者の使いの者であろう。
あわよくば光秀が頭に血が登って謀反に走ることを
想定して「上さまは今、本能寺におられます」と
伝えたに違いない。
■光秀は頭が良くないし人心掌握も下手
光秀は謀反の後の行動も思慮に欠けていて
自らチャンスを失って秀吉と戦う前から負けていた。
①京都ではなく山崎を戦地に選んだという大失敗
京都で天皇を背に戦えばあるいは極端に御所に
籠って戦えばそれを攻める秀吉軍は賊軍となってしまい
非常に戦いにくくなってしまう。
幕末に禁門の変で鉄砲を天皇がわへ向けた長州軍が賊軍になったのを見ればわかる。
8割以上戦意がなくても光秀の勝ちになる可能性が高かった。
ところが皇族に京都を戦地にするなと言われて
わざわざ京都を出てしまった。
見栄や建前を重んじている余裕はなかったはずである。
勝てる戦さをわざわざ負け戦にしていたのでは戦国武将としては
三流であろう。信長が光秀に激怒したのも理解できる。
②天王山を秀吉に渡した戦術下手
今に残る「天王山」という言葉は勝敗を決するターニング・ポイントである。
しかし秀吉より早く山崎で待ち構えていたはずの光秀は
天王山を取らずにに戦術に劣っていた。
光秀が陣地としたのは山崎の小高い小さな古墳であった。
③財宝を部下ではなく皇族に与えるおろかさ
安土城の財宝を謀反軍となってしまった自分の部下に与えて
労をねぎらうどころか皇族に与えて名ばかりの自分の
称号や名誉を欲した。
妙心寺にも多大な寄付をしているが部下には何も与えていない。
つまり苦労した自分の部下のことは何とも思っていないが
秀吉は姫路城に帰ると自分の持っていた財宝をすべて
自分とともに行軍してくれた部下にすべて分け与えた。
部下たちは大いに喜んで次の褒賞を期待して最高の繊維で
光秀軍と対峙した。
これに対して光秀配下の軍勢は疲れている上に
何のねぎらいもない光秀で戦う前から戦意を失っていた。
光秀は人心掌握のできないリーダーとしての資質が
なかった。負けるべくして負けたのである。
④ニセの手紙と見抜けなかった光秀
前田利家の部下が今ごろ何の用だ?
いつも上さま(=信長)が所領の配分など書状で伝えたことがないのに。
銀山を所領として分け与えてくださるとはこれは経済通の上さまの
命令とは到底思えない。
…これらから推察すればこれはニセの使者であることぐらいは
見破れたはずである。
群雄割拠のこの時代は知略策略がまかり通っていたのに
それを見抜けなかったのは光秀のおろかさ単純さである。
見事にこの策略にハマッでしまった。
■このニセの手紙をつかわせた者こそ計画の首謀者
さて黒幕もいない、計画的ではなく無慈悲な命令によって
突発的に謀反を思いつかせたこのニセの命令書をでっちあげたのは
誰だろうか?
命令書が偽物であるとわかった以上このシナリオを描いた人物が
必ずいるはずであり
①戦術策略に古くから長けている人物
②京都方面までの情報通である。
③京都方面に指示ができる
④当たり前だが信長の援軍を望まない人物
⑤毛利の領地事情にもくわしい人物
⑥本能寺の変で利益を得た人物
⑦光秀が秀吉の加勢に来ることを知っている人物
の条件を満たす人物である。
歴史学者はすぐに黒幕は家康だとか秀吉だとか
言いたがるがなぜ味方陣営ばかり探るのか?
信長がやってきて一番困るのは味方側ではなく
敵の毛利方であろう。
信長が自ら陣に駆け付けたとあっては和議の条件は
はるかに厳しいものとなる。
いや信長の性格からして和議などありえないだろう。
毛利側を完膚なきまで叩き潰すはずである。
となると信長が応援に駆けつけて一番困るのは
敵方の毛利陣営である。
■ 戦国一の策士・安国寺恵瓊が敵方にいた
毛利側にずば抜けた策士がいた。
安国寺恵瓊(あんこくじえけい)である。
この恵瓊は元々武士であるが毛利に滅ぼされてから
京都の東福寺の僧として長年勤めており
その後毛利家の交渉役になっている。
京都との情報交換にも長けているのは当然である。
交渉役が武士であれば相手陣営に殺されるこは
ないから今川家なども僧侶を交渉役としていた。
とりわけこの恵瓊は本能寺の変の数年前から
「信長は高転びするが秀吉の時代が来る」
と予言していた。
恵瓊は交渉役として秀吉と親しく接しており秀吉のことを
高く評価していた。
交渉の途中で秀吉が「もうすぐ光秀軍も上様のやってくるのでそうなれば
早く和議に応じたほうが良いのではないか?」と恵瓊に持ち掛けることは
当然やっていただろう。光秀の加勢を事前に秀吉から知らされていた可能性は
かなり高い。
また本能寺の変を知った後も秀吉を討つと
急き立てた小早川秀秋らを押しとどめて
それどころか秀吉に毛利軍の旗まで貸した。
毛利軍も秀吉の味方についたと光秀に思わせるためである。
この功績によって秀吉天下の後、恵瓊は
四国6万石の大名にとり建てられている。
まさしく本能寺の変で得したのは安国寺恵瓊である。
加勢にやってくる光秀軍を使って敵の総大将を討ったのだから
これ以上のない見事な計画である。知能だけで敵の総大将を滅ぼしたのだから。
■ 関ケ原の合戦まで暗躍
安国寺恵瓊は関ケ原の合戦でも暗躍して
石田光成と大谷吉継と和歌山城で共謀して
天下を狙うなと家訓が残されていた毛利輝元を
西軍の総大将にまつりあげた。
その結果として負けた西軍の総大将には
減封だけであったが恵瓊は光成とともに
斬首の刑にあっている。
恵瓊が関ケ原の合戦の首謀者であることは
家康軍にはわかっていたからである。
このようにこの時代になっても恵瓊は影響力をしっかり
持っていたのである。
当時の戦国武将は安国寺恵瓊が本能寺の変も
裏で画策していたことをうすうすわかっていたのであろう。
わからなかったのは現代の歴史学者たちだけである。
■ このシナリオは恵瓊にしか描けなかった
この本能寺の変を画策してシナリオを描いたのは
京都にも連絡網を持ち数々の交渉をまとめてきて
関ケ原の合戦まで戦国の合戦に影響を与え続けていた
策士が毛利側の交渉役にいたのは偶然ではなく
本能寺の変のシナリオ・ライターであったことは
出来過ぎるくらいこの男以外にはいない本命中の本命である。
恐らく後年秀吉自身もこのことには気づいていただろうが
この謀反で自分も天下をとれたのだから敢えて
それに触れるようなことはしなかったであろう。
光秀の「時は今、雨がしたしる五月かな」と詠んだ光秀の句は
秀吉が改変したものだという説もあるとすれば
秀吉は光秀が以前から謀反を計画していたものだとして
領地替えの書状を原因には見せたくなかったのかもしれない。
■ まとめ
・直前に秀吉軍に弾薬を送付
・光秀軍を分散しなかった計画性のなさ
・謀反後も京都をウロウロするだけ
・計画性がない
・ということは黒幕もいない
・領地召上げの命令が謀反のキッカケ
・銀の産地を与えるのは明らかなニセ書状
・しかし怨恨ではないことを信長が証明
・本能寺を教えたのは信長からの使者か
・人心掌握が下手な光秀
・交渉相手は信長の失脚を予想していた安国寺恵瓊
・関ケ原の合戦まで暗躍していた戦国一の策士
・秀吉から6万石の大名に出世
・本能寺の変で一番得したのは恵瓊
・本能寺の変は安国寺恵瓊が描いたシナリオでしかない。
■ 歴史家の失敗は
歴史家の先生方は論理的な思考は一切しない。
手紙などに残されたものだけを史実として
そこから類推することはできない。
このように書いた手紙が残っていると言って
手紙に書かれていることだけを真実としか
見ない。
だから光秀が書き残した手紙の中に本能寺の変の
真実があると信じているようである。
謀反を起こした本人が本当の理由など書き残すはずが
ない。歴史家は手紙の書かれていたことしか
史実として認識していないし論理的な類推を
行わないので本能寺の変の真実をいつまで経ってもミステリーとして
見抜けなくなっている。
ある有名な歴史家は光秀が馬上の信長から叱責を受けたから
謀反を起こしたのではないかと信じられない仮説を唱える人がいた。
それでは他の史実はどうなるのか?
そんな叱責を受けたぐらいで自分の家督を投げ出してバクチみたいな
謀反を起こすのですか?
あなたは何のために歴史を調べてきたのか?
と言いたくなってしまう。
■歴史を学ぶ面白さ
数学や物理を学ぶのと同じように歴史から論理的な
類推を重ねていくことこそ歴史を学ぶ面白さと言える。
昔のことを掘り返すことが歴史ではない。
筆者は坂本龍馬の寺田屋事件を調べるために
何度も寺田屋を何度も訪れたことがある。
自分の目で史実を確かめたくなって訪れたような
次第である。
教科書や歴史学者やYouTubeだけでなく
自分なりに検証するのもまた興味深いものである。
ご自分だけの歴史ミステリーの解明をやってみては
いかがだろうか?
