橋爪 啓

2. 太地角衛門

橋爪啓氏を語る上でまず切っても切れないのが
 太地角衛門である。
 橋爪啓は9代目の太地角衛門頼松の次兄として生まれて
 太地家一族の中でも太地角衛門の名前を誇りにしていた人である。

[太地亮氏による初代・太地角右衛門頼治の想像図]

 和歌山県太地町は全国的にも捕鯨の町として有名であるが
 太地角衛門はその町の名前を冠にしていることから
 おわかりのように太地町において捕鯨を代々営んできた家柄である。
 つまり捕鯨の網元である。

捕鯨の祖太地角右衛門の裔にして淋しかりける我らが一族 (橋爪 啓)

 

[網取り捕鯨の考案から太地家の栄華]

 和田忠兵衛頼元が捕鯨を始めその子孫である角右衛門頼治が網取り捕鯨の方法を
 考え出した。
 それまで鯨は銛で突いていただけなのであったが鯨を殺してしまうと
 鯨は海の底に沈んでしまうのでなかなかうまく捕獲することができなかった。
 これに対して和田頼治はある朝に蜘蛛が蜘蛛の巣を張って虫などを
 つかまえている様子を見て網による鯨の捕獲方法を考え出した。
 思考錯誤を重ねた結果、網取り捕鯨が功を奏しこれまでになく
 鯨を確実に捕獲することができるようになった。

 頼治は鯨肉を江戸の将軍家に献上するまでになりこの功績によって
 2代紀州藩主・徳川光貞より「太地」姓を賜り和田姓を改め
 太地姓を名乗り太地角右衛門頼治と改めて太地姓を名乗るようになった。
 これが太地角右衛門の誕生秘話である。

 井原西鶴は「日本永代蔵」で天狗源内として太地角右衛門を紹介している。
 「日本永代蔵」とは日本中の金持ちの逸話を集めた物語である。

 天狗源内(太地角右衛門)は毎年、正月には恵比寿さまにお参りするように
 していたがある年のことうっかり自分の舟の中で眠ってしまって
 その夢の中で網取り捕鯨の方法を考えつくという話である。
 やがて角衛門は徳川吉宗の役職まで勤めるようになり武士の正装の紋付袴まで
 許されるようになったとのことである。
 

 

太地角右衛門大金持ちよ
 瀬戸で餅つく表で碁打つ
 沖のど中で鯨打つ

 

 太地家は網元として代々栄華を極める。
 8代目太地角右衛門覚吾は小説家・伊藤潤氏作「鯨分限」という小説の主人公として
 怪男児・太地覚吾として描かれている。(分限とは金持ちの意味)
 小説の中では覚吾は舟の中で坂本龍馬近藤勇に出会ったりするので
 創作であることはまちがいないがベスト・セラーになった小説であり
 伊藤潤氏はこの小説で人気歴史家の道を歩みはじめることになる。
TV歴史番組でもお馴染みの方である。

[大背美流れ(おおせみながれ)と太地家の没落]

栄華を極めた太地家も明治11年(1878)12月24日に脊美流れ(せみながれ)という
 太地船団100名を失う遭難にあった。
 「背美の子連れは夢にも見るな。」という言い伝えのとおり
子連れのセミ・クジラを襲うようなことをしては母クジラが大暴れするので
 決して近づくなという太地の教えである。
 しかしこのときどういうわけかクジラは一匹も見かけずこのままでは
 帰れないというときに子連れのセミ・クジラに出くわしてしまった。
どうしても漁をしたがった太地船団はこの母クジラをしとめて
 曳航したのだが大きな嵐に見舞われクジラを抱えたままで船団は
沈没の憂き目にあったということである。

太地家は残された家族の補償にすべてを投げ出して没落することとなった。
今も太地家の菩提寺である和歌山県太地町の順心寺にはこのときの
 供養塔が建てられており「最後の鯨とり」という本まで出版されていた。
 
 太地家の菩提寺は和歌山県太地町の順心寺であり現在、この墓は日本遺産になっており
 和田義盛・巴御前からの系図が記されている。
 筆者・池田一明は生前の叔父の橋爪啓氏より太地家の始まりからの話は何度も聞かされて
 育ったものである。

 さて必殺シリーズで有名であった俳優・藤田まこと氏は
 若いころにはTVの人気番組「てなもんや三度笠」でお茶の間の
人気を集めた。
この藤田まこと氏が主演の昔の人気TV番組の「てなもんや三度笠」の最終回は
太地角右衛門の家が舞台であった。
伯母が「うちの家はあんな風ではなかった」とかブツブツ言っていたのを
私も覚えている。

[太地亮氏による太地角右衛門の広報活動]

9代目の太地角衛門頼松の長男・常路の息子に故・太地亮氏がいるが
この方は太地角右衛門の広報に尽力されて多数の著書を残している。
「太地角右衛門と熊野捕鯨」というHPを残してくれたことは
何よりであり今の時代に活用しやすいコンテンツを残してくれたことは
ありがたい。
この故・太地亮氏には私も面識がある。
同氏は橋爪啓氏を慕っていて親交も深かったようである。
特に太地亮氏は太地家の墓地を日本遺産にすべく尽力されたようであるが
惜しくも日本遺産の認定を知らずにお亡くなりになったようである。

 太地亮氏制作による「太地角右衛門と熊野捕鯨」のホーム・ページ

 

[日本遺産となった太地家の墓地]

 歴代の太地角衛門の墓地は和歌山県太地町の順心寺にあり
 太地町の観光マップにも掲載されているのはむろんのこと
 現在は日本遺産に認定されている。
 先に紹介した「枯れざる生命」の著者である山崎史子さんが
 太地家の墓の手入れを古座町からきて何くれとなく行って頂いているようであるが
 はるか神奈川県や高知県などからも墓参に来る人が今でも絶えないという
 ことである。

 

[8代目・太地覚吾(かくご)]

時代の傑物として語りつがられているのが先の伊藤潤氏の「鯨分限」の主人公として登場する
 8代目の太地角衛門となる太地覚吾である。
 小説の主人公となるくらいなのでよほどの個性のある人物であったのだろう。
16才のときに網元の頭領になった覚吾は北海道で捕鯨を計画したり大阪で海産物問屋を経営しようとしたり
 中でも太地町の梶取崎に私設灯台を建設して当時の海軍省の命令に無視して対立するなど
豪放磊落な人物でした。
三崎の鯨方と太地の鯨方の両方を手中にもした。
覚吾は嘉永2年(1849年)というからあのペリー来航(1853年)の前に家督をついでおり
明治42年(1909年)1月7日に新宮の旅館で没しているので19世紀~20世紀を生きた人物であるが
その写真が残っている。
 当時で現存する写真と言えば坂本龍馬や土方歳三と同じ時代であるので
 この時代に和歌山に住んでいて写真を残しているのだからよほどの
 金持ちであったのだろう。
筆者の実家にも橋爪啓氏から頂いた太地覚吾のこの写真と覚吾の好きな狂歌が残されている。
 (自筆かどうかは不明)
この狂歌も私は幼いときからよく母に聞かされてきたものである。

[太地覚吾]

軍服の上に和服を着た太地覚吾(66才・1899年(明治32年)撮影)

うまうまとおだてに乗りて走りけり

太地覚吾は自分が所有していた莫大な土地を寄付してそれが今の太地小学校になっている。
私は叔父の太地正(まさし)にどのあたりが太地家の実家であるかと尋ねると
広すぎてどのあたりかわからん。今の太地小学校だという返事を聞いたことを
覚えている。

 

[9代目太地頼松]

 私は幼いときに1度だけ母に連れられて9代目の太地角衛門頼松に会っている。
 母の話によると頼松は司法書士のような仕事をしていて姓名の苗字を与える職を
 していたとのことである。

幼いときから甘やかされて金持ちで育ったせいか頼松じいさんは朝が来ても
起きてこない。目が覚めているのに布団に入ったままである。
枕元に洗面器を運ばせて布団の中からようやく身体を少し這い出したままで
 なんと布団に入ったままで顔を洗う。
 朝飯も布団の中で取れたてのマグロをご飯に乗せて茶漬けにして食べると
 いう誠に怠惰で贅沢なグータラな生活を送っていたという。
 母の幼いときにはまだ家に駕籠(カゴ)があり、鯨が取れたときには
「お嬢様、鯨が取れましたのでご覧ください」と沖の浜まで駕籠に乗って
出かけるとのことであった。
ただし母のころにはそんな風習はもうなかったはずである。

この頼松おじいさんにはもうひとつ面白いことがあって
子供たちが学校で悪い点数のテストを貰ってくると
玄関にその悪いテストの答案を張り出すとのことであった。
子供たちは当然、やめてくれと懇願するのだが
 頼松おじいさんは張られたくなかったらこんな点数を取ってくるな、と
叱ったそうである。
これはかの日本を代表する数学者であった解析概論を書いた
高木貞二が子供のころに悪い点数を取ってくると親に机を背中に
 しょわされて玄関に立たされたという逸話によく似ていて面白い。
 橋爪啓氏も子供のころは頼松おじいさんにしごかれたのかも
 しれないのだ。

[9代目頼松と仏像]

太地家には太地家だけに伝わる不思議な伝承というか事実がいくつも
 伝わっている。
 その中で母から聞いた不思議な実話をひとつ紹介しよう。

 あるとき9代目太地角衛門頼松(祖父)が山の中に分け入っていたときのことである。
うっそうと茂る山の中で一体の仏像を見つけた。
普通ならそこで拾ってただ持ち帰るだけのことであるが
この人はちがった。
頼松は「ははぁ仏様!! 今は私はこんなむさ苦しい格好をしておりますので
 明日、改めましてお迎えにあがります。どうかそれまでお待ちください」と告げて
 その日はそのまま下山した。
 あくる日のこと頼松は紋付袴の正装に着替えて山に戻りその仏像の前にうやうやしく
 かしづいて「仏様。今日はお迎えにあがりました。どうぞ私とお越しください。」と
 平伏してその仏像を持ち帰ったとのことである。
この仏像はどういう経緯かは不明であるが橋爪啓氏の家に安置されていて
 その仏像を見るやいなや私の母も「はは~っ!!」と仏像の前に平伏したことを
 私も覚えている。
 この仏像は太地亮氏が橋爪啓氏より譲り受けて今では太地家に大切に
安置されているとのことである。
 この話は母から何度も聞かされた。さすが太地頼松はちがうと感心したものである。
 朝には布団から出てこなかった同じ人物である。

 

太地角衛門系譜

 出典: 太地亮 「太地角衛門と熊野捕鯨」より

 桓武天皇─葛原親王─高見王─平高望─良茂─良正─三浦太郎公義─為継─大介義明─杉下太郎義宗─和田小太郎義盛─+─
                                                       |
                                                                                              巴御前─────+

 ─朝夷名三郎義秀─和田次郎頼秀─左近太郎頼行─左衛門義頼─五郎頼高─四郎頼仲─下総守頼重─隼人頼種─七郎頼真-

  蔵人長盛─蔵人盛頼(頼実)─忠兵衛頼元─金右衛門頼照─

  太地角右衛門頼治─頼盛─頼雄─頼勝─頼徳─頼休─頼在─頼成(覚吾)─頼松─+──常路(つねじ)─亮(あきら)
                                                                            |                                                                                                                         :
                                                                            +──橋爪啓--──+──孝(たかし)
    ※山崎史子さんと小職(池田一明)の祖父が               |         |
        太地姓の9代目の太地角衛門頼松である                :                :
                                                                           |                +──山崎史子(ふみこ)
                                                                           |                :
                                                                           +──太地正(まさし)
                                                                           |
                                                                           +──石田末子(すえこ)
                                       |
                                                                           +──池田五月(さつき)──池田─明

亡・太地亮氏は太地家の人で私・池田一明の従兄に当たる。
 太地角衛門の広報に尽力され太地家を紹介する多くの著書やサイトを立ち上げている。
 現在、太地家を紹介する唯一のサイトが太地亮氏が独力で開発された
 サイト「太地角衛門と熊野捕鯨」のみである。
太地角衛門のWikipediaは存在していない。

[系図解説]

桓武天皇を始まりとして三浦一族を経由して鎌倉時代の侍所別当の和田義盛と巴御前より朝比奈三郎より再び
 和田一族となりて和歌山に至り太地姓を徳川より賜った後は太地姓を名乗っている。
 和田頼治より太地捕鯨を活発に始めて太地角衛門覚吾まで続く。
太地角衛門は太地角衛門頼松(池田一明の祖父)まで続く。